山手の地域の中で育っている
子どもたちです。
そのそばには、いつも
やさしい大人たちがいます。
屋号から始まった地域への関心
「いんきょかな。光哉に明日,畑に来てもらえんかなあ。」
「かどもと屋」の恭子さんからの電話だ。夏休みになると,一週間のうちに何回電話がかかってくるだろう。
「かどもと屋」というのは屋号だ。僕の住んでいる地域は,お互いを名字で呼ぶことはほとんどない。昔から家についた名前「屋号」で呼んでいる。地域の家は五十軒ほどだが,名字はたった三種類しかない。僕の家の屋号は「隠居」なので,隠居の光哉だ。
かどもと屋の恭子さんや祐一さんは,ぶどう農家だ。ぶどうを作りながら,地域のお世話もいろいろとしている。
僕の住んでいる地域は,農家が多い。農家ではない家もいくつかあるが,ぶどうや野菜をつくっている農家がほとんどだ。僕が生まれた頃から,他の県や地域から,ぶどうや野菜つくりで生活をしようとやってくる人が多くなってきたそうだ。そんな人たちの相談にのったり,いっしょに何かをしたりする時の中心にいるのが,かどもと屋の恭子さんや祐一さんたちだ。
「山手に来てもらって,いやいや,他の県からわざわざ山手地区を選んで来てく
れとる人らに,何かせんといけん思うてなあ。」
と,祐一さんはいつも言っている。僕も小さい頃から,かわいがってもらってきたから祐一さんのこの言葉を何度も聞いてきた。
小さい頃は,新しくやって来るひとの家を探したり,新しくぶどうをつくる人の畑を探したりして,何かをしてあげるのかなということくらいしか思っていなかった。しかし,今は祐一さんの言葉の意味がぼくの中で少し変わってきた。
新しく来る人に何かをしてあげることが一番ではない。祐一さんは,山手のことを一番大事に思っている。山手地区を大事にすることを,まず考えて,みんなで何かをする。そのことが新しくやってくる人のためにつながっているのだ。
秋から冬の四か月間,毎週金曜日の夜に地区のみんなが集会所に集まって,みんなで夕食を食べたり,地区の話をしたりする会がある。ぼくたち子どもたちも参加する。
何年か前の年には,「屋号」の話になったことがある。ぼくが小学生の頃のことだ。
「あそこの家の屋号,なんじゃったかなあ。」
「本家じゃろ。」
「いや,うちは辻屋いうてようるで。」
「私はお嫁に来たけん,よう知らんわあ。」
と,大人たちは大騒ぎだった。
しかし,次の週,その次の週も,屋号の話をしているうちに,父たちは不安になったらしい。僕たちの地区に,昔から伝えられてきた「屋号」が,地区のみんなから忘れかけられていることに気づいたからだ。
地区には,百四歳になるたまさんがいる。たまさんは毎日元気だ。僕がスクールバスに乗っていると,畑仕事をしている。僕も道で出会うと必ずあいさつをする。地域の辞書みたいな人だ。そんなおばあさんたちが何人もいるのが山手地区だ。
「たまさんやこうがおるうちに,調べとかんと,そのうちわからんようになる
で。今しかないわなあ。」
と,祐一さんや恭子さん,父たちは,たまさんたち高齢者の方が集まる行事の時に,いっしょに参加して屋号のことを聞いていた。
「あそこの家とあそこの家はなあ,もともとはいっしょじゃったんじゃけど,
わかれ屋で新屋(しんや)になったんじゃ。」
屋号は,家と家とのつながりや地区の歴史も教えてくれた。
「人のおらんようになった家はくずれて,そのうち山になる。畑も,手が入らん
ようになったら,山になっていくけんなあ。」
父は何週間も屋号を一生懸命にメモしていた。
山手地区にも,人が住まなくなって,家がくずれ,山になっているところがあ
ちこちにある。家がなくなるということは,長い間地区で使われてきた屋号も山
手から消えてしまう。山手に住む人の記憶からも消えてしまう。そして,一度消
えてしまったら,屋号が復活することはもうないだろう。
空き家を減らすことが地区を大事にすることになり,屋号を守ることになる。新しくやって来た人のことを,最初はみんな名字で呼ぶかもしれない。だが,その人が屋号を使いながら山手に住んでいるうちに,きっと屋号で呼ばれるようになるだろう。
新しくやって来る人のために何かをしてあげるのではなく,地区の人みんなが屋号を守り,地区を大事にする気持ちを持ち続けることが,大切なことなんだと思う。自分の地区のことが好きで,地区を大事にしようと思うから,新しくやって来てくれてありがとうという気持ちになれるのだ。
それが祐一さんの言葉のもう一つの意味だと思うようになった。
かどもと屋からの電話で,今年の夏も,ぶどうの手伝いに行くことになった。その時に,ぼくが思ったことを話してみようと思う。
ぼくの好きな山手地区のこと
「暑い。あと何日かかるんじゃろう。」
広い畑をずっと見回した。ぼく一人しかいないように見える。聞こえるのは、セミの鳴き声くらいだ。空は雲一つないくらい晴れている。さすが岡山は晴れの国だ。ぼくは、ぼうっと考えながら、一人でぶどうの袋かけをしていた。
「時間がある時に、畑に来てや。」
きっかけは、きょうこさんからの一声だった。きょうこさんは、いつも地域のいろいろなことをしてくれているおばさんだ。わが家もいつもお世話になっている。中学生になったこともあり、ぼくは夏休みにぶどうの袋かけの手伝いをすることになった。
ぼくが住んでいるのは、山の上の集落だ。集落のまわりの山々に、一面ぶどうの畑が広がっているといった感じだ。
祖父の時代もぶどうは作っていたが、五十年ほど前に山が切り開かれて、広いぶどう畑がたくさんつくられたそうだ。しかし祖父は父がまだ子どもだった頃、ぶどう農家をやめて家族で山を下りた。祖母は
「ぶどうだけじゃあ、みんなを食べさせれんかったからなあ。わたしもジーンズ
工場で働きょうたんで。今じゃあ、考えれんけどなあ。大変じゃったわ。」
と、この話をぼくたちによくしてくれる。その時から約二十年後、父は音のない、星のきれいな山の上の暮らしがしたかったらしく、この山の上に家を建てた。そして、ぼくが生まれた。
その頃、きょうこさんや町内会長をしているゆういちさんたちは地区のことをいろいろと心配していたようだ。
「若い人らがどんどん地区から出て行って畑のもりをする者はどんどんおじいさ
んやおばあさんになっていってしもうてなあ。そうなりゃ、せっかくの畑や田
んぼは山にもどるしかなかったもんなあ。」
高齢化の問題、少子化の問題、過疎の問題そして、畑や田んぼが消えていく問題が山積みされていた。
しかし、ぼくが生まれる少し前くらいから、きょうこさんたち、ぶどう農家さんの声かけで、「山手でぶどうをつくりたい」と、跡を継ぐ人がいなくなった畑で、ぶどうをつくる人が毎年来るようになった。
今では、地区の畑でぶどうをつくる人たちは、もともとつくっていた人たちより多くなっている。昼間、ぼくたちが学校に行っている間、地区の畑でぶどうをつくっている。そして、その人たちは、地域の行事やいろいろな作業に参加し、ぼくの住む地区を支えてくれている。
十二月に、地区の人や地区で農業をしている人たちが集まって、ぼくの家の前の山を切り開くことになった。二日かけて、山の木や竹が切られていった。今まで高い木や竹やぶで見えなかった空が、どんどん広くなっていった。ゆういちさんが、
「この山、もともとはこれだけ広い畑じゃったんじゃ。今度は、ここは桃の畑に
なるんでなあ。」
と、うれしそうに教えてくれた。そして、この畑で桃をつくり始める農家の人は、
「みんなが畑を広げてくれたここで、桃がつくれます。ありがたいですわ。」
と笑っていた。ずっと山だと思っていた所が本当は畑だったのだ。そして、その広い畑は祖父や曾祖父がずっとぶどうをつくっていた畑だったことを聞いて、ぼくは驚いた。山になってしまっていた畑が復活したのだ。
暑い夏、ぼくは一人でぶどうの袋かけをしていると思っていた時、まわりの畑でも静かにぶどうの袋かけをしている人たちがたくさんいたのだ。そして、その人たちがぼくの住む地区を支えてくれている。
ゆういちさんは、ぼくに
「地域の人や新しく来る人の子どもさんと話をしてくれるだけでええんじゃ。い
っしょにおって、そばで笑うてくれとるだけで、新しゅう来た方は安心するけ
んなあ。」
と言う。空き家の片付けや新しく家を建てたり畑にしたりする土地をつくる手伝いをしている時や「道つくり」という地域の清掃活動の時に、いつも声をかけてくれる。
ぼくは、生まれてからずっと地区の人たちに育ててもらってきた。今度はぼくがする番だ。今まで、そして、これからも地域の行事や活動はたくさんある。二年間、コロナで止まっている「夏祭り」も復活したいとみんなが思っている。
そんな中で、ぼくは、ぼくの育っている地域を支えていくことができるように、地域の方々とたくさん笑って、たくさん話をして、地域の「元気のもと」になりたいと思う。
左が光哉君です。
右は、弟君です。
いつも二人で遊んでいます。
転校生を通して考えたこと
ぼくは、初詣で神社へ行く途中に、いっぱい質問をした。
「前に住んでたのはどんな所だった。」
「前の学校はどんな所だった。」
「山は好き。」
「将来は何になるん。」
相手は、大みそかの前の日に引っ越してきたばかりの池田君だ。
11月に、地区長のゆういちさんからお父さんに連絡があった。
「今度、千葉から引っ越してくる方でなあ、うちの下の家があいたけん、そこに
来ることになったんじゃ。その方とズーム会議するけん、家族みんな集まって
んな。」
と、ゆういちさんのうれしそうな声が電話の向こうから聞こえてきた。
金曜日の夜に、家族みんなで集会所に行くと、役場の人も来ていて、大きな画面の向こうに池田君のお父さんとお母さんが映っていた。お父さんたちは、池田君の住んでいる千葉のこと、ぼくたちが住んでいる山手のことをお互いに話していた。ぼくも少しだけ自己紹介をした。その時に、池田さんの家には、小学一年生と六年生の兄弟がいることを聞いた。うちもぼくが六年で弟が一年で同じだ。
その時から、ぼくは池田君のことが気になってしょうがなかった。
お正月の日に、集会所に地域の人たちが集まって、池田さんたちの引っ越しのお祝いをすることになった。
「うちは、するめでだしをとって、かまぼことごぼうを入れるくらいかなあ。」
関東は四角いもちを焼いて、関西は丸もちをにてつくること、だしのとり方や雑煮にのせる具は、家で全然ちがうことをお母さんたちは話していた。ぼくたち男四人組は、となりの部屋でたくさん話をした。
1月3日に、
「ちん守さまに初詣に行こうと思ってるんだけど、いっしょに行かない。」
と池田さんたちが来てくれた。神社までは、山を下って二キロか三キロある。夏祭りには行くが、地元の神社なのに初詣には行ったことがない。ぼくは、もちろんいっしょに行くことにした。その時に、ぼくはいっぱい質問した。
ぼくは学校に行く時にいつもバスで通っている道だけど、池田君は、
「木が高いなあ。何の木かなあ。」
「この畑、広いなあ、何を作ってるの。」
といっぱい聞いてきた。二人とも質問ばかりだった。質問に答える前に、もう次の質問を考えている感じだった。家に帰って、そのことをお父さんに話すと、
「こうやが質問したことのこうやの答えは何じゃったんかなあ。今、住んどる所
はどんな所。今の小学校は。こうやは、山は好きか。こうやの答えを池田君に
話したか。」
と聞かれた。
ぼくが住んでいる山手のこと、学校のことなど考えたことがない。山は朝から夜までいつもあるから好きとかきらいとか、考えたことがない。住んで当たり前、あって当たり前と、どれも当たり前すぎて考えたことがないことばかりだった。そんな質問を池田君にしたのはちょっとはずかしかったかなと思ったが、お父さんと話しながら、自分の答えを考えてみた。
ぼくが住んでいる所は山ばかりだが、ぼくは大好きだ。時間があれば、弟と散歩する。どこを見ても、木や草やぶどうや野菜の畑ばかりだ。夜は空いっぱいに星が見える。夏にはクワガタやカブトムシが飛んで来る。秋からは雲海の上に住むことになる。どんなに大声を出してもだいじょうぶだ。地域のおじさんやおばさんは、ぼくの顔を見ると声をかけてくれる。学校のみんなはやさしいし、いっしょにいろいろなことをがんばれる。学校は楽しいことばかりだ。
一番難しかったのは将来のことだ。今までお父さんやお母さんに聞かれても、ぼくは
「ううん。」
と言っていつも終わりになってしまう。やりたいことはたくさんあるのに、はっきり答えることができないで終わってしまう。ずっとそんな感じだった。
でも、それはそれでいいかなと思う。新しい友だちや今までの友だちやお父さん、お母さんや地域のおじさん、おばさん、いろいろな人とたくさん話をしていくうちにだんだん決まっていくかなと思う。だから、池田君とたくさん歩いて、たくさん話をして、たくさん質問をし合っていこうと思う。